皆さんは道を聞かれたら
どのように説明しますか。
「この道をまっすぐに進み、
最初の信号を右に曲がる」
こんなふうに答えるでしょうか。

実は大阪や京都の人に道を聞くと、
「この道を北に進み、最初の信号を東に曲がる」
と説明されることが多いように思われます。

最初は、北とか東とか言われても、
方角なんてわかるわけないと思っていましたが、
実は、道路が碁盤の目になっていて、
慣れてくると東西南北の方向が
自ずとわかるようになります。

地元の人は昔から東西南北を使って
場所の位置を認識する習慣があり、
そのような感覚が身についているのでしょう。
だから道を聞かれたら、
つい方位を使って説明するのだと思われます。

京都や大阪の道路が碁盤目ではなく、
斜めだったり弧を描いたりしていたら、
方位がわからなくなるため、
前後左右という言葉を使って
説明するようになっていたと思われます。

このように私たちは、
前後左右という自分を中心とした見方、
つまり自己中心座標系と、
東西南北のように地理に基づいた見方である
地理座標系の両者の見方を持っています。

ところが世界には、
前後左右を表す表現を持たない言語を
話す民族も存在しています。

この人たちは、
すべて東西南北という地理座標を使って
会話をすることになります。

有名なのがオーストラリアの先住民の
言語のひとつである
グーグ・イミディル語を話す人たちです。

この人たちの日常会話では、
「足の北に蟻がいる」
「部屋の西にある箱の南にある皿を取って」
といった具合です。

もちろんこの民族は、
東西南北がどの方向化を認識していますが、
どうも関西人の認識の仕方と異なるようです。

この地域は、舗装された道路があるわけでもなく、
道が碁盤目になっているわけでもありません。
にもかかわらず東西南北がわかるというのです。

太陽が昇る方向や、山の位置など
方位を知る目印になるものはありますが、
でも全く方向を知る情報がない場所でも、
方位がわかるというのですから不思議です。

例えば、見ず知らずのところとか、
見通しのきかない場所、
深い森や草原、洞窟の中、
初めて行く家の中であっても、
東西南北の方向がわかるというのです。

なぜわかるのか、
それははっきりしたことはわかりません。

もしかしたら、
絶対音感を持つ人がいるように、
この人たちは絶対方位感とでもいう感覚を
持っているのかもしれません。

ある言語学者はこの民族を対象に、
いろいろな研究をしています。

例えば、外光が入らないように暗くした屋内で、
目隠しをして20回以上グルグルと回らせても
方位を正しく認識するかを試したのです。

すると、回転後よろめきながらも、
目隠しをしたまま
正しい方向を指し示したというのです。

これは私たちの常識を覆すような事実ですが、
同じように地理座標系を使って
方向を表現する民族は
他にもたくさんいるというのです。

ただこのような方位感覚が
自然と身につくわけがありません。

グーグ・イミディル語で話をする限り、
四六時中、方位を察知する習性がなければ
とても会話ができません。

ですから小さい頃から、
様々な物理的環境を手がかりに、
無意識レベルで方位を観察する習慣が
日常生活の中で培われて
いったのではないでしょうか。

そのような過程を経て、常に方位を意識し、
環境が示す意味ある手がかりに注意を払い、
自身の移り変わる方位を鋭敏に記憶することを
無意識にできるようになったのだと思われます。

もしそうだとしたならば、
グーグ・イミディル語という言語が、
そのような方位感覚を身につけさせたと
言うこともできます。

つまり言語が違えば、無意識レベルで
ものの見方や感じ方、考え方や価値観にも
影響を及ぼすということです。

今回紹介したことは、
「言語が違えば、世界も違ってみえるわけ」
(ガイ・ドイッチャー著、インターシフト)に
詳しく書かれています。

この本は、8年前に出版された本ですが、
年間ベストブックを多数受賞しており、
とても読み甲斐のある本でした。

興味のある方は是非読んでみてください。
ただし、少々読みにくいです。