唐突ですが、
蝶(ちょう)と蛾(が)は
同じものだと思いますか?

私は、蝶はきれいなもので、
蛾は暗いイメージがあるので、
到底、同じものには見えません。

正確な生物学的区分は別として、
通常の感覚では、この両者は区別されます。
少なくとも日本人は。

ところが、フランス人はどうでしょうか。
フランス人は蝶と蛾は同じものだと
認識しているのです。

なぜならば、フランス語では
蝶と蛾は区別されず、
ともにpapillon(パピヨン)という
ひとつの単語で呼ばれているからです。

つまり、フランスには
日本で言うところの蝶と蛾を一括りにした
パピオンという昆虫がいるだけなのです。

日本人からすると、
蝶と蛾を一緒くたにするなんて、
けしからんと思うかもしれませんが、
それはフランス人の勝手です。

フランス人は一括りにしても、
問題や不便さを感じることもなければ、
そもそも両者を分ける必要性も感じていないため、
蝶と蛾を区別せず、
パピオンと呼んでいるだけのことなのです。

これは正しいとか間違っているという話でも、
真実か否かという話でもありません。

ただ単に、
蝶と蛾を区別して表現する必要性が
あるか否かというだけの問題であり、
日本人はあると感じ、
フランス人はないと感じたという、
ただそれだけのことです。

その背景には、
文化や歴史、環境、価値観といった要因が
あると思いますが、
どうしてそこに至ったかについては
わかりません。

同様の現象は英語にも見られます。
日本語では兄と弟、姉と妹は区別しますが、
英語ではbrother(兄弟)、sister(姉妹)となり
その区別がありません。

水とお湯もそうです。
日本語では両者をはっきりと分けますが、
英語はどちらもwater(ウォーター)です。

ついでに言うならば、
日本語では愛と恋は別のものですが、
英語ではどちらもlove(ラブ)です。

逆に、日本語では同じものとして扱うのに
他の言語では区別してあつかうというものも
いろいろとあります。

誰でも知っているのは帽子です。
英語では、縁のある帽子はhat、
縁のない帽子はcapと区別しますが、
日本語はどちらも帽子です。

英語圏の人から見ると、
カウボーイハットと野球帽は
どう見ても別ものでしょうと思うのでしょうが、
日本人からみると、
どちらも頭にかぶるものだから
「帽子」でいいんじゃない、
という認識になってしまうのです。

このように、それぞれの国や言語によって、
認識の違いがあるため、
自ずと区別の仕方も異なるのです。

また、日本語自体でも、
区別が曖昧なものがあります。
その代表が「アオ」と「ミドリ」です。

なぜ曖昧なのかと言うと、
「アオ」という言葉は、
青と緑の両者を含んだ表現だからです。

「アオ」は青だし「ミドリ」は緑でしょうと
言いたいところですが、
実際はそうではありません。

昔から、青信号は実際には緑なのに
なぜ、青信号と言うのかという議論がありますが、
これなどはその典型的な例です。

このように青と緑を区別せず、
緑も青と表現する名残は
様々なところで残っています。

皆さんは青汁をご存じだと思いますが、
これはどう見ても緑です。
でも、緑汁などとは言いません。
青菜も青唐辛子もどう見ても緑です。

 

 

 

 

また、新緑の季節と言いながら、
その時の若葉のことを「青葉」とか
「青々とした葉」と表現します。

冷静に考えれば、
青葉ではなく緑葉ですし、
「緑々とした葉」と言うところでしょうが、
これも青と緑を区別しない
「アオ」という言葉の名残だと思われます。

もっと面白いのは、
アオバトという鳩の名前です。

 

 

 

 

これまたどう見ても緑ですし、
漢字では「緑鳩」と書くのです。
しかし、これは「アオバト」と読みます。
もう青か緑かわかりません。

このように日本人は、
昔から緑を青と呼ぶ習慣があり、
そこにあまり違和感がないのです。

だからこそ、
青信号、青汁、青菜などと言っても、
何ら気にすることなく、
日常会話ができるのです。

何が言いたかったのかというと、
言葉というのは現実を表しているわけではなく、
あくまでも私たちの勝手な都合や認識で
つけている呼び名であり、
国や文化によっても、さらには人によっても
捉え方が違うということです。

ですから、
自分の物の見方が正しいなどというのは、
単なる錯覚です。

自分が正しいと思いこんでいるだけであり、
よくよく考えてみると矛盾することなど
なんぼでもあるのです。

たまには青菜を食べながら、
自分の認識の矛盾に
思いを馳せるのもよいのではないでしょうか。