前回、紹介させて頂いた飲茶さんは、
東洋哲学や西洋哲学流れや
その違いについても
とてもわかりやすく簡潔に述べています。

例えば西洋哲学と東洋哲学の違いついては
こんなふうに述べています。

西洋哲学は、より優れた真理を求めて、
多くの人が2500年もの歳月を費やし、
積み上げてきた学問です。

もっとも、近年は「究極の真理」なんてあるの?
という考え方が主流になってきていますが、
それも、様々な考えを積み上げ、
洗練されていった結果です。

一方、東洋哲学はどうかというと、
突然、「私は悟った!真理を知った!」と
言い張る人が出現し、
その人の言っていたことを後世の人たちが、
様々な解釈をすることで学問としてまとめ、
それが多くの宗派となりました。

つまり、西洋哲学はゴール(真理)をめざして、
一つ一つ積み上げながら進んで行ったのに対し、
東洋哲学は、ゴールをめざすのではなく、
最初にゴールがあり、
そこからスタートしているのです。

このように両者は出発点からして
全く異なる思想体系なのです。

また、追い求めている方向も内容も
全く違います。

西洋哲学の場合は、「世界の根源は何か」
「絶対的に正しいことは何か」とった具合に、
「人間の外側」にある「何か」について
とことん考え続けました。

一方、東洋哲学では
「自己」という「人間の内側」にある
「何か」について考えたのです。

つまり見つめている方向性も
「外」と「内」というように正反対です。

さらに、考えた方も全く違います。
西洋では「知識」として得たことは
「知った」と見なされますが、
東洋では、リアルな「体験」を伴って初めて、
「知った」と認め、
それを「悟った」と言うのです。

つまり、西洋は論理を基盤としているのに対し、
東洋は体験を基盤としています。
なんか、水と油の関係を連想してしまう程です。

では、東洋哲学におけるゴール、悟りとは
どのような状態のことを言うのでしょうか。

それは無分別智とか
梵我一如とか言われる境地ですが、
これは簡単には説明できません。
というか、言語化できない概念なのです。

しかしそれでは話が前に進みませんので、
誤解を恐れず、説明してみます。
(間違った理解だったらごめんなさい)

映画館で「私の人生」という映画を
「私」が観たとしましょう。
よく結婚式の時に、
新郎新婦の幼い頃からの写真や映像が
紹介されますが、そんなイメージです。

当然「私」の人生を観ているので
いろいろなことを思い出し、
悲しくなったり、嬉しくなったり、
痛みを感じたりするかもしれません。

しかし、映画の中の「私」は
映画を観ている「私」とは
全く別なのですから、
本当なら嬉しかったり痛かったりといった
感情や感覚に巻き込まれることなく
平静に観ることも可能です。

つまり映画を、
そのように見続けることさえできれば、
痛くもかゆくもないのです。
そんなことができたならば、
ある意味、そこには「私」は
存在しないということになります。

しかし、「私」は映画の中に
自分を見出してしまい、
いろいろなことを思ってしまうから
いろいろな感情や感覚が
生まれてきてしまうのです。
そこには明らかに「私」が存在しています。

つまり悟りの境地とは、
このように「私」が
存在しない状態であり、
言い換えるならば、
「映画」と「私」の境界が
なくなった状態とも言えます。

もしもその境地に達することができたならば、
余計なことに惑わされることなく
淡々と生きていけるので
苦悩はなくなるというわけです。

その境地に達するための手段として、
苦行をしたり、お経を唱えたり、
座禅を組んだりとか、
いろいろな人がいろいろな手段が
考え出されたというわけです。

しかし、私はこれには疑問があります。

確かに「私」が存在しない境地になれば
苦悩はなくなるかもしれませんが、
そのことばかりに必死になるあまり、
楽しみや喜びを味わうことに
あまり意識が向かなくなってしまうのではと、
凡人である私は少々心配になってしました。

ところが、飲茶さんの
「史上最強の哲学入門~東洋の哲人たち」の
最後のところに「十牛図」の簡単な説明があり、
そこを読んでなんとなく理解できました。

それによると、
「私」が存在しない境地が最高の境地ではなく、
その後があるというのです。

それは、悟りの境地に達した「私」が
再び、俗世間に戻り、
俗人と同じような生活をして
過ごすというのです。

肉や魚を食べ、酒を飲み
普通に楽しく暮らすのです。
そこに誰かがたずねてきても、
悟りすました態度で教え導くのではなく、
ただその出会いを楽しむのです。

そんな境地に至るのが、
禅では「私」が存在しない境地よりも
上の境地だというのです。

そこには立派な人や
悟りを開いた偉大な聖人でもなく、
ちょっとだらしない陽気なおっちゃんが
いるだけなのです。

つまり、本当に悟ったという人は、
普通の人と見分けがつかないのです。

まあ、わかったようなわからないような
そんな話しになってしまいましたが、
真理は言語化できないということなので、
この辺でお許し頂きたいと思います。

でも、この本を読んで思いました。
私は悟ることはできないかもしれませんが、
悟った人と区別がつかない、
「ちょっとだらしない陽気なおっちゃん」には
なれるかもしれないと。