ブログ:日本人における幸せな死とは

今回は「日本死の臨床研究会」で行なわれた
「日本人にとっての幸せな死とは」
というシンポジウムの内容について
私の考えも含めお話をさせていただきます。

これは三人の演者が各々の立場から
「幸せな死」について語り、
最後にみんなで
ディスカッションをするというものです。

三人の中で一番印象的だったのが
尾角光美さんの話でした。

尾角さんは19歳の時に母を自殺で亡くし、
その後、兄も一人暮らしの自室で
死後数週間経って発見されるという
経験を持っている方で、
今は「一般社団法人リヴオン」を立ち上げ、
グリーフケアの活動をしています。

他の二人の演者が、
死は終わりではなく始まりだとか、
すべてはつながっているので、
そのことを実感することが
幸せな死になるとか、
そんな話をしていました。

しかし尾角さんだけは違っていました。

人が苦しんだり悲しんだり
落ち込んだりするのは、
全くもって正常なことであり、
一人一人の反応もみんな違うというのです。

また、死にゆく当事者であろうと、
残された遺族であろうと、
幸福な死か不幸な死かを決めるのは
その人がどう解釈するかだけのことだとも
言っていました。

自殺であろうが孤独死であろうが
それを幸か不幸かなどと、
誰が決めるのかということです。

自殺をしたいと思って
それを成し遂げた人は
もしかしたら現世での苦しみから
逃れられて幸せなのかもしれません。

もちろん、だからと言って
自殺を勧めるつもりはありませんし、
死後の世界の存在を否定するつもりも
ありません。

あくまでも、ひとつの考え方として
十分に理解できるということです。

孤独死もそうです。
みんなに見守られながら死ぬのが
幸せだと誰が決めることでしょうか。

人とのかかわりが嫌いな人、
人のお世話にはなりたくない人、
病院が嫌で嫌で仕方ない人、
人知れずひっそりと
逝きたいと思っている人などにとっては
孤独死は理想の死かも知れません。

つまり、そのような人からすれば、
孤独死はまさに幸せな死になり得るのです。

実際、野生動物の多くは、
最後は他の動物の目に触れない場所を選び、
そこで密かに最後を迎えます。

生き物にはそのような本能が
備わっているのでしょう。

そう考えると、
人間も一人静かに亡くなる孤独死は
必ずしも不幸な死とは言えないのです。

不幸だと思うのは、
残された人たちが
きっと寂しかったに違いない、
悲しかったに違いないと
勝手に解釈しているだけであり、
実際にはわからないのです。

もう一つ興味深かった話があります。

それは、
死は受容したり乗り越えたりする必要が
あるのだろうかという疑問を
呈したことです。

そんなことを目指すのではなく、
心がゆらぎながらも、
そのゆらぎを大切にしながら
次第に落ち着いてくるのを待っていれば
それでよいというのです。

人は、身内の死に直面したり、
自分がじきに死ぬということがわかると
多かれ少なかれ戸惑い、
落ち込み、悲嘆にくれるものです。

でもそれは、
人として全くノーマルな反応であり、
当然のことなのです。

もちろん、残された遺族が
悲嘆に打ちひしがれ、
それをずっと
引きずってしまうようなことがあれば、
多少なりともケアをする必要は
あると思います。

でもそれとて、
個人差の問題であり、
その人にとっては当然の反応なのです。

それを、死を受容するだの
超越するだのと考え、
あれこれする必要はあるのだろうかというが
尾角さんの言いたいことであり、
私も全く同意見です。

もちろん、
人は生きているのではなく
生かされている存在であり、
役割が終われば
故郷に帰るだけという考え方が
受け入れられる人はそうしたらよいのです。

それにより、死を恐れないようになり、
受容できるようになるかもしれません。

しかしそんな人であっても
いざ自分の死が近づいてくると
やはり落ち込み、
何とかならないものだろうかと
ジタバタすることだって
あってもいいのです。

実際、私の外来を受診したお坊さんが
そうでした。

彼は、死が間近に迫っている人に対して
穏やかな気持ちになれるように
仏の教えを説いてきた人です。

でも、その彼は
「人にはさんざん言ってきたのに、
いざ自分がその立場になると、
全くダメですね」と言っていました。

彼は外来に来る度にため息をつきながら、
どうしたらいいんでしょうかという質問を
ずっと繰り返していました。

これが人間なのです。これでいいのです。
心が揺れながら最後のときを迎える、
死を受容しなくても、
それはそれでいいのではないでしょうか。

ですからそれを
幸せとか不幸とか思う必要はなく、
自分の思うままに過ごしていれば
よいのです。

結局、幸せな死などというものは
実在するものではなく、
当事者や遺族が幸せな死だと思えたら
それが幸せな死になるということです。

私もそれでいいと思いました。

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