ブログ:闇があるから光がある
前回お話したように、
頂点として光り輝く存在の陰には
存在すら知られずに消えていく
多くの人がいます。
いつか自分も
芥川賞や直木賞を取りたいと思って
毎年頑張っている作家は、
かなりの数にのぼると思われます。
例えば、こんなイメージです。
賞を取って有名になった作家の陰には
賞を取りそこねた作家が100人います。
賞を取りそこねた各々の作家の陰には
本を出しても売れなかった作家が
100人います。
本を出しても売れなかった各々作家の陰には
本を出してもらえなかった自称作家が
100人います。
いかがでしょうか。
頂点に立って光り輝き、
皆からその存在を知られている人の陰には
これだけ多くの人たちが
うずもれているのです。
では、表舞台にでることなく
その闇へと消えて行った人たちは
どうなってしまうのでしょうか。
前回のブログでも紹介したように、
神童と言われプロ棋士を
目指したにもかかわらず、
結局は、古新聞の回収業で
働くという生活を強いられる人もいます。
しかし、その一方で
闇から這い上がり、
異なる分野で光り輝くようになった人も
たくさんいます。
「闇があるから光がある」
これは蟹工船などの著作で有名な
小林多喜二の言葉です。
この意味は、
「闇から出て来た人こそ、
一番ほんとうに光の有り難さがわかる」
というものですが、
一方で、闇の経験をしたからこそ、
そこで一念発起し、
のちに光り輝く人になれたという
意味にも理解できます。
実際、小さい頃から苦労し、
そこから這い上がりトップになったという
会社の社長や有名人はたくさんいます。
さらに、順風満帆の生活から、
突然、どん底に突き落とされ、
多額の借金を抱え、
にっちもさっちもいかなくなりながらも
そこから這い上がり、
大成功を収めたという人もいます。
こういう人たちは、
苦悩や逆境という闇の部分をばねにして、
そこを乗り越えてきたからこそ
光にたどり着けたのだと思います。
まさに「闇があるから光がある」ということを
身をもって経験した人だと言えましょう。
私たちは、どうしても
失敗や不幸、挫折を味わうと、
どん底に突き落とされたような気分になり、
もうダメだと思ってしまうものです。
でも、シェイクスピアも言っています。
「これがどん底だ」などと言っていられる間は、
どん底にはなっていない、
本当のどん底まで落ちれば、
残るのは希望だけだ、と。
また、京セラを設立し、
のちにJALを再建したことでも有名な
稲盛和夫さんも
「もうダメだというときが仕事の始まり」
と言っています。
他にもこの類の名言は
たくさんの名言があります。
「どんなに暗くても星は輝いている」
「冬がなければ春の訪れは喜べない」
「人は転んでこそ立ち上がれるもの」
闇の底に落ちているときは
なかなかそんなことは思えないでしょう。
でも、どこかでふと
このような言葉を思い出し、
その言葉の意味をしみじみと
味わうことができたならば、
再び光に出会える可能性が
出てくるのではと思います。
ただ、多くの人は
どん底に落ちるという経験よりも、
大小さまざまな困難や挫折を繰り返しながら
自分なりの着地点を見つけ、
そこで何とか日々を生きているという方が
一般的なように思います。
私自身もその一人です。
そんな人間からすると、
ジェットコースターのような人生よりも、
日常の些細なことでイライラしたり、
理不尽な出来事に憤りを感じながらも、
何とかその日その日を
生きているという感じです。
そんな意味では、田山花袋の言葉の方が
私には響くのです。
「毎日掃いても落ち葉はたまる。
これが取りも直さず人生である」
皆さんはいかがでしょうか。

最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムにんげんの考えることを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。多神教化とでもいうのだろうか。