ブログ:共感してはいけない!?②

前回の続きです。
情動的共感は他にも様々な問題を孕んでいます。
そのひとつは、
自分が相手に対して
どのような思いを持っているかによって
情動的共感は大きな影響を
受けてしまうということです。

例えば、
エイズ患者の映像を被検者に見せ、
Aさんは輸血によりエイズに罹患したと説明し、
Bさんは覚せい剤の静脈注射により
エイズに罹患したと説明します。

すると、被検者は覚せい剤の注射で
エイズになったというBさんには
あまり共感を覚えず、
それは、脳の画像検査でも認められました。

人は差別や偏見はいけないと
頭では思っているつもりでも、
実際には、「薬物をやってエイズになったのなら
自業自得だな」などといった自分の思いが
無意識レベルで共感の度合いに
反映されてしまうのです。

私たちは、このような無意識のクセを
たくさん持っており、
それが情動的共感の程度に大きな影響を
及ぼしているのです。

身内や仲間、自集団を
ひいきしてしまうというクセもそうです。

例えば、オリンピックであれば
ほとんどの日本人は日本を応援しますし、
高校野球でも自分の出身校や
出身県の高校を応援したくなります。

オリンピックで世界の強豪を倒し、
日本人選手が勝てば、
当然、自分のことのように喜べます。
これは情動的共感が働いたせいです。

しかし、日本が負け、
相手の国の選手が勝った場合、
がっかりしたり、残念な気持ちになりますが、
相手国の選手の喜びには共感できません。

これは良い悪いといった話ではなく、
仲間や自分が属する集団の方を
ひいきしてしまうという心のクセが
私たちの脳には備わっているということを
物語っているのです。

このように情動的共感は、
相手をどのように感じているか、
自分がどのような立場にいるかによって、
大きく影響を受けてしまうのです。

オリンピックや高校野球の応援においては
情緒的共感は何ら問題にはなりませんが、
現実の社会において、
公平や平等、道徳的、政治的判断が
求められる状況では
これが大いに問題になります。

例えば、女性蔑視発言が問題となり、
東京五輪・パラリンピック組織委員会の
森喜朗会長が2月12日に正式に辞任しました。

差別や偏見は、
クローズアップされやすいテーマであり、
無意識レベルではどうであれ、
頭ではよくないと誰もが思っていることなので、
全国レベルでの共感は得やすく、
結果、森氏は辞任へと追い込まれました。

ただ、政府としては森氏に会長を
続けてほしかったのだと思います。

なぜならば、
オリンピックは多額の資金が動き、
政財界をはじめ各界の思惑が入り乱れ、
自分たちに少しでも有利な状況を
作ろうとします。

そんな魑魅魍魎が跋扈する社会において、
様々な組織とのつながりや
幅広い人脈を持つ森氏だからこそ
うまく取りまとめることが
できていたという側面もあります。

しかし森氏が辞任すると、
五輪実現に向けた調整が
難しくなることが予想されるため、
できたら森氏に会長を
続けてほしかったという思惑があるのです。

そんな背景もあり、
政府は、自分らにとっては都合のよい森氏を
どうしてもひいき目に見てしまうのです。

政府からすれば、
女性蔑視発言は明らかに問題ですが、
謝罪したからいいんじゃない、と考え、
一般国民が抱くような
「辞めろ!」という思いにまでは
共感できないというわけです。

しかし、一度、情動的共感が
全国レベルにまで広がると、
どんなに客観的、全体的な視点を持って、
森氏の進退の是非を
検討しようなどと言っても、
もう無理です。

すでに冷静に判断するような状況には
ないからです。

世界からも
非難されるような状況になってしまっては、
もう辞任するしかありません。

今回の辞任報道に接し、
情動的共感力の破壊力を
改めて思い知らされました。

このように情動的共感は、
ひとつのことにスポットライトを当て、
それを強調することで得やすくなり、
また、どの立場に立っているかによっても
左右されてしまうのです。

だからこそ、操作されやすく、
また、常に適切な判断が
なされるとは限らないため、
著者は「共感に反対する」と断言しているのです。

さらに情動的共感は
人を悪人にする危険性があるとも
指摘されています。

通常、被害者に対して情動的共感を持つと、
加害者に対しては、その反動として
恨みや憎しみという情動がわきあがってきます。

以前、「テラスハウス」に出演していた
女子プロレスラーの木村花さんが、
自分の言動をSNSで誹謗中傷され、
自殺してしまった事件がありました。

これなどはまさに情動的共感が、
人を殺すことがあるという実例であり、
「人を悪人にする」ということの意味なのです。

もっとも、情動的共感が
悪い働きばかりをするわけではありませんし、
いい意味で人を動かし、
それが世の中を変えていく
原動力になることも事実です。

ですから実際には、
情動的共感の危険性を十分に認識しつつ、
認知的共感も働かせながら、
物事を判断していくことが
大切になってくるわけです。

皆さんは、反共感論をどう思われますか。

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