先日、朝の読書会で
「福岡伸一、西田哲学をよむ」
~生命をめぐる思索の旅~
(小学館新書:池田善昭、福岡伸一著)の
プレゼンをしました。

久しぶりにはまり込み、
夢中になって読んだ本でしたが、
プレゼンの時間が15分と短く、
かつ内容が複雑かつ難解なこともあり、
あまりうまく話ができませんでした。

そこで今回、このブログを通して
再度チャレンジしたいと思います。

生物学者の福岡氏は
生命を「動的平衡にある流れである」と
定義しています。

動的平衡とは簡単に言ってしまえば、
例えば細胞内で行われている合成と分解、
酸化と還元、結合と切断といった
相反する営みが絶えず同時に行われるという
動的な状態があるために、
うまくバランスが保たれ(平衡)、
維持されていることを言います。

実は、日本を代表する哲学者の西田幾多郎も、
生命の本質について、
独自の考えを持っていました。

その考えが、
福岡氏の言う「動的平衡」の考えと
同じだと気づいたのが、
この本のもう一人の著者である
哲学者の池田氏でした。

この本は、
この両者の対談やメールのやり取りをまとめ、
動的平衡を西田哲学から読み解くという
とても斬新な内容になっています。

本書では西田の難解な哲学用語、
例えば「絶対矛盾的自己同一」とか
「歴史的自然の形成作用」「非連続の連続」
といった言葉が、
動的平衡を絡めて議論されていますが、
ここでは、そういった哲学用語は一切使わずに
私の理解できる範囲内で
話を進めていきたいと思います。

この対談ではいくつかのポイントがありますが、
そのひとつが基本的なものの見方についてです。

西洋哲学も自然科学も
物事を探求していく方法論として
機械的、論理的、分析的な手段を使っています。

例えば、細胞の構造を調べるのでも、
細胞を固定し、各々の器官が目で見える形にし
それを観察するという形をとります。

いわば死んだ細胞のある一瞬をとらえ、
それを実際の細胞だと考えるわけです。

私たちが生物の教科書で目にする
細胞膜で囲まれた細胞の中に、
核やミトコンドリアの絵が描いてある、
あの図がまさにこれです。

ところが実際の細胞はそのようには見えません。
これはあくまでも便宜的に描かれた図であり、
実際に生きている細胞を
図にすることなどできないのです。

一方、動的平衡の考え方は、
静止している一瞬一瞬の細胞を
つなげて全体を見るというのではなく、
流動的な存在である生きている細胞を
そのままを見ていると言えます。

西田哲学の思想も、
分析したり観念的に物事をとらえるのではなく、
実在そのものを見る、
先入観や思い込みをわきに置き、
全体を丸ごとみるという視点に立っています。

つまり、
個々をバラバラに見るという視点ではなく、
つながりや相互作用という働きも含めた
全体的な視点に立った考え方だといえます。

ですから、ベースにある視点は、
西田哲学も動的平衡の考え方も
同じだと言えます。

これはホリスティック医学の考え方にも
共通するところであり、
その意味でもとても興味を覚えました。

次のポイントですが、
そのような現実の世界では
相反することや矛盾することが
同時に起こっているという事実に目を向け、
それを受け入れることが大切だということです。

例えば、細胞を包む細胞膜は
細胞の外側と内側を分けている境界線でなく、
外側と内側の物質が絶えず、
しかも同時に出入りをしている
「流れ」そのものなのです。

また私たちの身体の細胞は
37兆(60兆)あると言われていますが、
そのほとんどは1年もすれば
入れ替わってしまいます。

つまり細胞はその中で、
絶えず合成と分解を繰り返しているのです。

また、そのすべての営みには
化学反応が関与しているため、
酸化や還元といった
相反する現象も絶えず起きています。

つまり自然界では、
このように相反する現象が
同時に起こっているという事実があります。

ところが科学の世界では
このような考え方は受け入れられないのです。
なぜならば、すべての現象は
原因と結果があるという因果律によって
成り立っているという前提があるからです。

ある現象が起こるためには
必ずその前に何か原因となるものが
なくてはいけないのです。
つまり、原因と結果が
同時に起こることはないと考えているのです。

西田哲学では、
相矛盾することが同時に存在するのが
生命であると述べており、
この点も動的平衡の考え方と一致しています。

次はいよいよ最も重要な
動的平衡における「先回り」と
時間との関係の話になりますが、
これは次回にさせて頂きます。
(続く)