ブログ:ワクチンと権力①
先日、面白い本を読みました。
國部克彦著、
「ワクチンの境界~権力と倫理の力学」
(アメージング出版)です。
著者は経営学の教授なので、
ワクチンを打つ、打たないに関しては
中立的な立場をとっています。
ここに書かれていることは、
ワクチンの是非ではなく、
権力が私たちの心の内面に
忍び込んできていることへの警告です。
ワクチンを打つか打たないかに関して、
自分の意思で決められるのであれば
何ら問題はありません。
しかし、それが
できなくなってしまっているのが
現代の日本ではないかと言っているのです。
なぜならば、日本社会では
わたしたちの思考の中に、
全体主義的傾向が
忍び込んできているからです。
全体主義とは、
ひとつの「正しい考え方」のもとで
全体をまとめ、
それに従わない人は排除するという
考え方です。
実際、ワクチンに関しては、
多くの問題が指摘され、
推定で4万の人が亡くなっていると
言われているにもかかわらず、
それについては全くと言ってよいほど
討議はされていません。
また、政府の方針に全く疑いを持たず、
素直に(盲目的に?)信じて行動する国民が
ほとんどです。
一方で、政府の方針に従わずに
時短営業をしなかったり、
マスク未着用やワクチン未接種者は
無責任だと厳しく糾弾される傾向が
生まれました。
これがまさに、
全体主義的傾向と言われる状況であり、
ある種の権力による支配だと言うのです。
しかし、ここで言うところの権力は
一般的に考えられているような、
人間を無理矢理に押さえ込むような、
そんな権力ではありません。
20世紀を代表する哲学者
ミヒャエル・フーコーは
権力について次のように言っています。
封建時代における権力は、
人間を暴力で痛めつけ
従わせるという形でしたが、
近代社会では、
監獄に入れ監視し、
規範に従うよう訓育し矯正させるという
内面から規律づける
「規律的権力」に変わってきました。
この規律的権力を
人間の内面に埋めこむための装置を
近代社会は作り上げました。
それが学校、工場、病院などの機関です。
その結果、自分の内部に
自分を監視する目を持つ
自己規律型人間が生まれたのです。
そのような人間は、
「規律的権力」が内面を統治しているため
従順に上の言うことに従うのです。
さらに、個人のみならず、
社会を構成する多数の人間も
集団で統治する必要があります。
そこで、注目されたのが医療です。
医療は、人間の生命を守ることを
使命として掲げているため、
私たちはあまり抵抗することなく、
逆に歓迎して受け入れる傾向にあります。
その結果、人間の存在、行動、行為、身体が
大規模な医療の網目の中に組み込まれ、
そこから逃れることができない状況に
なっているのが現代社会です。
こうして人間の生命を
人為的に支配する権力を
フーコーは「生権力」と呼び、
生権力に基づく政治を「生政治」と
名づけました。
今、私たちは、
生権力の支配下に置かれているのです。
例えば、健康診断などは、
検査という形で健康な人に介入し、
病気と判断すれば治療対象とします。
これは「健康な人間」を治療するための
介入であり、
生権力と規律的権力による戦略だと
見なすこともできます。
さらに生権力は
「あなたの健康のため」という、
すぐには否定できない言葉を使って
大胆に権力を行使してきます。
また、生権力を行使するための手段も
様々なものを持っています。
その最も強力な手段が科学と、
そこから生み出されるテクノロジーです。
これらの手段を駆使して、
私たちの命を支配しているのが
まさに生権力なのです。
当然そこには、製薬会社をはじめ、
医療機器や検査機器のメーカーも関与し、
医療の進歩、発展に貢献すると称して
生政治を後押ししています。
私たちが検査データの数値に
一喜一憂する姿は
まさに飼いならされた動物そのものです。
これは生命や健康という
人間の最もプライベートな領域への
侵入なのです。
現代社会においては、
検査や薬、医者、病院に一切かかわらずに
生きていくことはほぼ不可能なのです。
このような現実を見てもわかるように、
私たちはこのようなシステムの中で、
生権力や規律的権力に支配されながら
生きているのだとフーコーは言っています。
健康が大切であることは
言うまでもありませんが、
それを理由に権力が
人間の内面にまで
踏み込んできてもよいのかと
この著者は問うているのです。
(続く)