前回に続き、
今回も「ポリコレの正体」
(福田ますみ著、方丈社)の内容について
紹介させて頂きます。

ポリコレをデジタル大辞泉で見ると、
「人種・宗教・性別などの違いによる
偏見・差別を含まない、
中立的な表現や用語を用いること。

1980年代ごろから米国で、
偏見・差別のない表現は
政治的に妥当であるという考え方のもとに
使われるようになった。

言葉の問題にとどまらず、
社会から偏見・差別を
なくすことを意味する場合もある」
となっています。

そのためキリスト教徒の宗教用語である
「メリークリスマス」はご法度となり、
「ハッピーホリデー」になったのです。

ポリコレは今、
さらにエスカレートしており、
それがアメリカ社会を
どんどん蝕んでいると言います。

では、このポリコレは
いつごろから広まり、
影響力をもつように
なってきたのでしょうか。

言葉の起源に関しては
はっきりわからないようですが、
ポリコレが現在のような意味合いで
一般に広がったのは1990年以降のことです。

この運動の中心にいるのが
一部の左翼活動家です。

ポリコレは正しいことと思われていますが、
国際グループが米国人8000人を対象に
実施したアンケート調査によると、
実は国民の80%が
ポリコレは問題だと思っているという
結果が出ています。

つまり、もともとは
マイノリティへの差別や偏見を
取り除くことが
ポリコレの目的だったはずですが、
当のマイノリティ自身も
ポリコレを疑問視するように
なっているのです。

少々?やり過ぎ感があることから、
本心では疑問に思っている人が
多くいますが、
それを言葉にすると
「差別主義者!」と非難されるので
表向きは同調せざるをえないというのが
現状です。

ではなぜ、そこまで激しく
突き進んでいるのでしょうか。

それは、彼ら彼女らの思想的根幹には
「文化マルクス主義」があるからだと
言われています。

これは、革命そのものを起こすことよりも
既存の資本主義社会を内部から
いかに蝕み、いかに弱体化させるかに
主眼を置いた思想です。

その思想の中心となっているのが
悪しき保守主義の考え方を育む凶器である
「家庭」や「伝統文化」の解体です。

そのため、
何かしらの理由をつけて
家父長制や一夫一婦制からの脱却を訴えたり
宗教や伝統文化を強く批判したり
しているのです。

また、ポリコレを盾にすることで、
ジェンダー、人種、民族における少数派、
LGBTなどの弱者の権利を過剰に擁護、尊重し、
異論を封殺し、多数派との間に
緊張状態や対立を煽るという形で
アメリカ社会の弱体化を狙っているのです。

さらに、米国社会の精神的支柱であり、
モラルの源となるキリスト教は、
最大の攻撃対象と見なされています。

今では、法廷闘争を通して、
以前は普通に行われていた
米国の学校での「お祈り」は
政教分離に違反するとして禁じられました。

公共の場に十字架など
キリスト教的要素があれば、
撤去させるように強く働きかけられます。

その結果、「クリスマスツリー」は
なくなってしまったのです。

これは、別にイスラム教徒から
抗議の声が上がったというわけでは
ありません。

左翼がキリスト教色を徹底的に
排除したかったがためにやったことです。

マルクス主義者にしろ、
文化マルクス主義者にしろ、
彼らの重要な目標のひとつは
家庭の破壊です。

彼らは家庭の破壊に利用できるものは
何でも使おうという立場であり、
LGBT運動は、その手段として
うってつけだったというわけです。

ポリコレは日本語で
「政治的公平性」とか「政治的妥協性」と
訳されていますが、
事実は中立でも公平でもありません。

結局、左翼の価値観にそぐわない意見を
封じ込めるための思想警察であり、
言葉がりです。

実は、この運動は米国だけではありません。
すでに日本でも起こっています。

最近で言うと、
昨年2月に起きた、
東京オリンピック組織委員会委員長(当時)の
森喜朗元総理の
「女性が入ると時間がかかる」発言です。

全文を読めば、
意図することはわかることですが、
女性を侮辱しているわけでも、
軽蔑しているわけでもありません。

それは、「欠員があればすぐに
女性を選ぼうということに
しているわけです」と
結んでいることからもわかります。

それを、全体の意図するところを
読み取ろうとすることなく、
悪意ある「切り取り」により、
女性蔑視だ!差別だ!と言って、
徹底的に糾弾し、
最期は辞任に追い込みました。

またLGBTの問題も
最近はニュースなどで
よく取り上げられるようになりました。

LGBTに対しても、
ちょっと過敏に反応し過ぎではないか、
などと言おうものなら、
「差別だ!」と強く批判されます。

たとえ謝罪したとしても許さず、
徹底して責め立てられ、
反対者が排除されるまで追及をやめないという
「敵(保守派)には徹底的に不寛容であれ」
の精神を貫いているのです。

でも、LGBTへの意見やコメントを
そこまで責め立てる必要が
あるのでしょうか。

確かに海外では
LGBTを犯罪として扱う国も多数存在します。

2016年現在の報告によると
LGBTは72カ国で犯罪と扱われ、
イランなどでは極刑になります。

このような世界の現実を見ると、
もう少しLGBTへの理解を深め、
受け入れるようにしましょうと言うのは
理解できます。

しかし、日本の場合は、
奈良や平安時代以前から、
同性愛者を社会的に差別したり、
ましていわんや、その人たちを
法律で取り締まったりすることは
ありませんでした。

例えば
『万葉集』には大伴家持らの
男性に宛てたと思われる恋愛を詠んだ和歌が
多数収められています。

また、1579年に来日したイタリアの宣教師
アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
男色について
「若衆たちも関係のある相手もこれを誇りとし、
公然と口にし、隠そうとはしない」と
書いています。

私たちが知ってところでは、
三輪明宏やカルーセル麻紀などが
かなり昔からメディアに出ていますし、
オカマバーも普通にあります。
(私も行ったことがあります)

このように、日本では大昔から
LGBTに寛容であり、
差別云々などと言われるような文化は
存在していないのです。

LGBTの中で、
本当に支援が必要なのは
T(トランスジェンダー)の人たちの
一部の人です。

他の多くのLGBの人たちは、
実はあまり騒ぎ立ててほしくないというのが
どうも本音のようです。

ですから、
マスコミやニュースで取り上げられる話と
この本に書いてあることは
あまりにも違うことに驚きました。

この本で、
かなりのページを割いて書いてある
BLM(ブラック・ライブズ・マター)
については長くなりすぎるので、
このブログでは触れませんでした。

興味のある方は、
本書「ポリコレの正体」
お読みください。

この本を読んで、
表側からは見えない、
社会の裏側を垣間見た気がしました。