私たちは誰もが幸せになりたいと
思っていると思います。
でも、何を持って幸せというのでしょうか。
これはなかなか難しい問題です。

もちろん、お金があるとか
地位や名誉があるというのは
そうでない人からすれば、
幸せなのだろうと思うかもしれませんが、
当の本人からすると
必ずしもそうとは限りません。

確かにお金は、
ある程度までは必要ですし、
事実、それにより幸不幸を左右します。

しかし、年収が800万を超えると、
それ以上いくらお金があっても、
幸福度は頭打ちになると言われています。

地位や名誉があっても、
そのような立場になれば、
敵も多くなるでしょうし、
人間関係で嫌な思いをすることも
少なからずあると思います。

その意味では、
現実は結構ストレスの多い生活を
強いられることになり、
それが幸せかと言われると
なかなか難しいところがあります。

私たちは、
日常生活という現実に生きている限り
どうしても目の前の現実に目が向けられ、
全体を総合的に見て判断するということは
なかなかできません。

そのため、
自分はどの程度幸せなのかということも
人生を押しなべて見て判断するというよりも、
今までで強く印象に残っていることや、
今現在の状況をもとに
判断するというのが普通です。

これが「焦点錯覚」を生み出しています。
これは、ある一つのことに目が向けられると
他のことが見えなくなってしまうという
人間の持っているクセのひとつです。

ノーベル経済学賞を受賞した
ダニエル・カーネマンは
焦点錯覚を
「あなたがあることを考えているとき、
人生においてそのこと以上に
重要なことは存在しない」
という言葉で言い表しています。

実際、どんな大富豪であろうと、
自分ががんだと診断されたら、
そのことが頭にある限り、
自分は幸せだとは思えなくなるでしょう。

宝くじで5億円が当たったとしても、
その時は幸せだと強く感じたとしても、
1年後には、その幸福度は元に戻ると
言われています。

私たち凡人でも、
それは全く同じことが言えます。

嫌なことや辛いことがあると、
もうどうでもいい!と
やけくそになることもあります。

でもその一方で、
子供の無邪気な笑顔を見たり、
仲間と飲み食いをして、
つかの間の楽しみを味わっているときは
幸福感を感じるものです。

人には、経験する自己と
記憶する自己が存在しています。
両者とも同じ自分ですが、
主観的には全く異なる印象を持ちます。

例えば大腸内視鏡検査という
肛門からカメラを入れて
大腸内を隈なく見る検査があります。

その検査において、患者さんの、
時間の経過に伴う苦痛の程度を
評価してもらうという研究があります。

これを見ると
検査後の苦痛の評価は
検査中の苦痛の評価とだいぶ異なり、
また検査時間の長さにも
関係しないことがわかります。

例えば、8分で検査が終わっても、
途中に強い苦痛と、
終了時に強い苦痛があったとしたならば、
検査中の苦痛の「総量」は
結構高いと認識されます。

一方で、検査に25分もかかり、
途中、強い苦痛や
中等度の苦痛があったとしても、
最後はそれほど苦痛なく終われた人は
検査中の苦痛の「総量」は
それほどでもなかったと認識します。

客観的なデータとしては、
長い時間がかかった検査の方が、
苦痛の「総量」は多いのですが、
当の本人は、そうは感じていないのです。

では、何が自分の苦痛の「総量」を
評価するのに使われているのでしょうか。

それはピーク時の苦痛と終了時の苦痛の
平均でほとんど決まることが
わかっています。
これをピーク・エンドの法則と言います。

要するに、「経験する自己」は
その時その時の苦痛を評価します。

一方で、その時の経験を振り返り、
思い出しながら全体を評価する
「記憶する自己」は、
ピーク時と終了時の苦痛が
記憶に残っているため、
この二つで全体の評価を
全体の評価として認識します。

ですから、
今あなたは幸せですか?とたずねるのと
あなたの人生は幸せでしたかと
たずねるのとでは、
全く答えが異なる可能性が高いのです。

そう考えると、
たとえ苦労の多い人生だったとしても、
死ぬ間際に一切れのウナギをつまみにして
お猪口一杯の熱燗を飲みながら、
「あ~うまいな~」としみじみと味わい、
その数日後に息を引き取るというのも
幸せな人生だと言えるのかもしれません。