私が心療内科医から緩和ケア医になって
2、3年目の頃だったと思いますが、
ある60代の胃がんの男性が入院してきました。

当時の私は、緩和ケアケア医としては
まだ経験が浅く、
とにかく患者さんの苦痛はできるだけ
取らなければならないと思っていました。

彼は胃の出口がほとんどふさがっていたため、
何も食べられない状態であるにもかかわらず、
毎日、頻回に嘔吐を繰り返していました。

通常、このような場合、
鼻からチューブを入れ、
胃液など、胃に溜まってきたものが
自然と流れ出るようにしてあげれば
嘔吐はしなくてもすむため、
患者さんはとても楽になります。

当然そのような処置をして、
数日間はほとんど嘔吐することなく
過ごしていましたが、
ひょんなことから、そのチューブが
抜けてしまいました。

そのため、再度入れ直そうと思ったのですが、
チューブは煩わしいから、もういいと
再挿入を断られてしまいました。

当然そうなれば、再び頻回の嘔吐を
するようになります。
嘔吐は結構苦痛の伴う症状であり、
それが日に10~20回となれば、
チューブを入れておく不快感よりも
ずっと辛いのではと思うのですが、
彼は頑なに再挿入を拒んでしました。

さらには、ナースの「しんどくないですか?」
という声かけに、
「しんどいに決まっているだろ!
いちいちそんなこと聞くな!
他のナースにも言っておけ!!」
と怒りをぶちまける始末でした。

彼には妻と成人した4人の子供、
それに孫が一人いました。

彼はほとんどベッドで
横になって過ごしていましたが、
ベッドサイドには家族の誰かが
必ず付いていました。

毎日、吐き続ける日々を過ごしていたある日、
一人のナースに突然、
「オレはなんでこんな苦しいのに
ずっと我慢しているかわかるか?」と
話しかけてきたというのです。

当然、理由などわかるはずもなく、
「わかりません」と答えると、
彼は、ぼつぼつとその理由を
語り始めたというのです。

その理由とはこんなことでした。

オレは若い頃はやんちゃで、
たくさん悪いことをしてきた。
今自分がこんな病気になって苦しんでいるのは
その時の罰が当たったんだと思っている。

だから、子供や孫には、
オレみたいな悪いことばかりやってきた人間は、
最後はこんなふうに苦しむんだということを
教えてやりたかったんだ。

そう、ナースに語ったというのです。
私はこの話をナースから聞き、
初めて彼が苦痛を
我慢し続けている意味がわりました。

それから2週間ほどして彼は亡くなりました。
最後まで、一度も苦しいとか、
何とかしてくれと言うこともなく、
じっと苦痛に耐えながら
そのまま息を引き取ったのでした。

この経験を通して、
私は自分の思い込みの浅はかさを痛感しました。
それまでは、当たり前のように
苦痛は取るべきものだし、
患者さんにも苦痛を我慢させるべきではないと
思っていました。

ところが、
誰もが取って欲しいと思っている苦痛ですら、
人によっては取ってはいけない場合も
あるということを知ったのです。

緩和ケア医としての、
常識という「思い込み」を
見事に打ち砕いてくれたという意味で、
この患者さんのことは
生涯忘れることができません。