以前、心療内科医をしているときに、
こんな経験がありました。

ある患者さんが受診され、
色々なことを一生懸命に話してくれました。

私は相手の目をしっかりと見つめながら、
頷いたり、ときには「そうですよね」と
相づちを打ったりして、
一生懸命、話を聴いていました‥
と言いたいところですが、
実はそうではありませんでした。

その日はとても気になることがあり、
診療中も、常にそのことが頭からはならず、
話を聴くどころではなかったのです。

ですから、患者さんの話も上の空で聞いており、
内容など全く理解できていませんでした。
もちろん、何度も気を取り戻し、
話を聴くことに集中しようと思ったのですが、
30秒と持ちませんでした。

でも無意識の力はさすがです。
それなりに頷いてはいましたし、
内容はよくわからないながらも、
「それはつらかったですよね」などと、
その場しのぎの反応を
知らず知らずのうちに返していました。

そんな状態で1時間ほど話を聴いていたのですが、
帰り際に患者さんが
驚くべきことを言ったのです。
「先生が私のことをすごくわかってくれて
本当にうれしかったです!」

「喜んでもらえてよかったです」と返し、
患者さんは診察室をあとにしたのですが、
私は罪悪感と満足感の入り交じった
何とも言えない気持ちになってしまいました。

似たような経験は
緩和ケア医になってからもありました。

あるとき97歳の胃がんの患者さんが
緩和ケア病棟に入院してきました。
その患者さんは、入院初日に
聴いて欲しい話があるので
時間を取ってほしいと言ってきました。

それではと言うことで次の日に
十分な時間を取って話を聴かせてもらいました。
話は、戦前の生活から始まり、
戦時中の満州での出来事や
そこから命からがら日本に帰ってきたこと、
そのときには筆舌に尽くしがたい
悲惨な経験をしたこと、
そして戦後の極貧生活から今現在に至るまでと
1時間以上にわたり続きました。

すべての話をし終え、
ホッと一息ついた患者さんが
私に向かって言ったひと言が
今でも忘れられません。

「先生はまだまだお若いのに、
どうして私の経験した苦しみを
そんなにわかって下されるのですか」

そのときには何て返答したか
あまり覚えていませんが、
私がどう思いながら話を聴いていたかは
今でもはっきり覚えています。

「私には全く経験のない悲惨な話だから、
理解はできてもあまり実感が湧いてこなないなあ」
そんな思いで実は聴いていたのです。

この二つの体験は、私にとって
とても衝撃的な事件だったので、
今でもしっかりと記憶に残っています。

その後、色々と考える機会があり、
私なりの、ある結論に達しました。
それは、クライエントが
「自分のことをわかってもらえた」と感じるのは
セラピストが「わかった」からではなく、
クライエントが勝手に「わかってもらえた」と
思い込んでくれただけなんだ、ということです。

ではなぜ、クライエントは
「わかってくれた」と思ったのでしょう。
それは、セラピストの「反応」を見て、
そう解釈してしてしまったのではないでしょうか。

つまり、セラピストが
こんな反応を返してくれるということは
きっと私のことをわかってくれたに違いない!と
勝手に思い込んでしまったというわけです。

だからこそ、クライエントの話しを
上の空で聞いていたとしても、
また、実感できない体験談を聴いたとしても、
あたかも「わかった」と言わんばかりの反応を
返すことさえできれば、
クライエントは自分のことを「わかってくれた」と
つい錯覚してしまうのです。

もちろん、話を真剣に聴かなくてもいいとか、
上手に反応さえ返しておけばよいなどと
言うつもりは毛頭ありません。
そんなことで最後まで通用するほど
甘い世界ではありませんので。

しかし、話を聴くということだけに
終始できるのであれば、
もしかしたらこれで
通用してしまうのではという思いは
正直言ってあります。

ただ私の場合は、
クライエントの悩みや問題を
解決することを目的としているため、
反応を返すだけでことが済む程、
単純なコミュニケーションを
しているわけではないので、
当然、それだけでは埒があきません。

いずれにせよ、反応力を身につけ、
上手な反応を返すことができるか否かは、
クライエントとの信頼関係を構築する上において、
とても重要な要素のひとつだと言うことを
私はここで言いたかったのです。